【タイ移住457日目~タイ移住463日目】タイ語学校の転校生

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カノジョの名前はサクラ(仮名)。
他のタイ語学校から転校して来た、若い女性です。

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<タイ移住461日目>
「カプ雄さん、おはよう」
後ろから掛けられた声に振り返ると、若い男性が手を挙げて微笑みました。同じクラスに通う生徒です。
「おはよう。あ、カバン持ってってくれる?一服してから行くから」

5分後、教室へ行くと黒板ではなく、なぜか教室の入口に身体を向けて座り、微動だにしない人物がいました。
瞬時に人種を見分けることが得意な私でも判別できない風貌です。
「サワディーカップ」
とりあえずタイ語で挨拶をしてみても、それは眼球さえ動かさず、硬直したままでした。

カバンを預けた若い男性の隣に座り、尋ねます。
「あれ、置き物?」
「シーッ!」
男性は、人差し指を唇に当て、私の肩を軽く叩いて笑いました。

タイには精巧に作られたオブジェが至るところにあるので、その類だと思った私は、もう一度、彼に尋ねます。
「ねえってば。あれ、誰が持って来たの?」
彼は口元を両手で覆い、私から視線を逸らしました。

「おはようございます」
「サワディーカー」
他の生徒も続々と入って来ますが、それはやっぱり動くことなく、無風の中に咲く一輪の花のようでした。
そこだけ異次元と化した空間に、皆が驚きの表情を隠せずにいます。

【ボクらは何を思えばいいのだろう。窓の外には洗ったような太陽が燦々と輝き、ガラスに光を反射させ織を返している。緩やかな円を描いた影の先に佇む一輪の花と、往きつ戻りつ往く情緒の中で】

「サワディーカー」
タイ人の先生が入って来ると、それは身体の向きをくるりと変え、静かに黒板を見つめました。
「やっぱり、あれ生き物?」
隣の席の男性に小さく耳打ちをすると、彼は再度、私から顔を逸らし、素知らぬふりをします。

「今日から、新しい生徒が入ります。他の学校から来ました」
先生が言うと、それは他の生徒に視線を移すでも、会釈をするでもなく、表情一つ変えず前を向いたまま固まっていました。
「クン チュー アライ カ?(あなたの名前は何ですか?)」

室内に大きな衝撃が走ったのは、先生が尋ねた瞬間です。

「出た~来た~、やっぱ来たか~来ると思ったわ~!クンチューね、はいはいはいはい、えー、クンチュークンチュー、ちゃうって。ちゃうちゃう、私のことやから、ディチャン(女性の「私」)チューや、やべえ、うけるーマジやべえ、えーえーえー、何て言ったらいいんやろ、ほら、あれやろ、いや、分かってるよ、頭の中では分かってるって、や~ばい、マジや~ばい。ちょっと待って。いや、来ると思ったよ~、そりゃ来るよね~、マジや~ばい、うける~。いやいやいやいや、それは聞くでしょ~」

乾いた落ち葉が踏まれるように、桜が散らばる春風のように、大きな声で叫びながら喋り始めたカノジョは、時に太く短い腕を上下に振り、時に大きな手のひらで粘り気のありそうな汗を拭き、2分ほど意味不明なことを捲し立てた後、突如、先生に尋ねました。

「ええと、今日、何ページから?」

【もう一度、人生をやり直せたら。人は誰でも一度は思うと聞く。もう一回だけ、全てをチャラにできるのならば、ボクらは、この学校に入らないと、誰もが思った神無月の午後】

「せやから、今日ってタイ語でなんだっけ~。やった、やったな、前の学校でもやった。あ~ここまで出て来てるのに、や~ばいマジ待って、いやウケるっしょ、えー忘れた?忘れてないよ、や~ばい、シクシクシクシク。マジむずい。でも聞かないと分からないよね?だって何ページか分からないよ。ちがう?そうでしょ?え~そう来たかって?ウケる~。いや来るでしょ聞くでしょ、え~なんだっけ~ああ、ほらほらほら」

室内に走った衝撃が徐々に緊張へと変化を遂げます。
他の生徒と交互に視線を合わせ、無言で意思の疎通を図りました。

「まず、お名前を」
先生の最終手段は巧みな日本語です。
「だよね~。それは聞かれると思ったサクラも、うん。いや、聞くでしょ。来た来た来た来るよ~来たよ~って、うけるマジや~ばい、名前でしょ名前ね名前名前名前(中略)サクラ、さっき自分で言ったやん、ウケるマジで。難しいね~タイ語は難しいよ~」

たしかにタイ語は難しいです。
しかし、カノジョは日本語で聞かれた問いに対し、日本語で名乗ったに過ぎません。しかも「サクラ」の3文字を吐き出すために、少なく見積もって5分は費やしました。

あらためまして。ご紹介させて頂きます。カノジョの名前はサクラ。
仮名ですが、日本の四季を彷彿とさせる美しい花の名前です。

タイ語で「~さん」は「クン~」と言います。
よって「サクラさん」は「クン サクラ」となりますが、うっかりすると「サクラ君」と呼んでしまいそうなほど、パンチの効いたルックスと立派すぎる体格で、どことなく韓国の格闘家チェ・ホンマン氏が瞼に浮かびました。

拭えないほどの緊張が色濃く残る教室で授業は進み、新しい文法や単語を習うたび、生徒がそれを使って自分で文章を作るのですが、カノジョは自分の番が周って来ると、答える前に必ず1分以上も「でしょ?やっぱりそうでしょ?来ると思った~おいおいおい(中略)だから、そういうことでしょ?え、どういうこと?うん、いや、ムズいからね~」と長い長い前置詞を述べ、最終的には何も答えず話題を逸らそうとします。
「うそやん、お腹すいた~。さっき何かスマホ光ったな。え、今の何の話?」

それはカノジョ以外の生徒が発表する番でも続きます。
「だから~あれでしょ、ほら、分かってるよ、やったもん、サクラやった、前の学校で(中略)だから、あれだよね~あれだよ、そう来たか~、ギブ。いや、分からなくはないよ、でもギブギブ」

他の生徒が発表する時には静かにするように。
先生が少し苛立った声色で注意をすると、サクラ君は厚い指で薄い唇をもぎ取るかの如く挟み、しかし、その5秒後には指を放して口を開きます。
「苦しい~死ぬところやった~、簡単じゃね?これ究極。簡単マジ(中略)あ、分かった~サクラ分かった~、すげぇカンタン、どした?どした?星でしょ?あ、言ってもうた、だから星のこと、うん、星」

1時間の授業の後、他の生徒たちはグッタリしていました。その様子は、しだれ桜。少しの雨でも散りそうです。

難解な文法を理解しようと、どんなに思考を巡らせても、カノジョの声が脳を撹乱させ、それと同時に、怒り・戸惑い・悲しみ・憎しみ、あらゆる負の感情が詰まった万華鏡は、ものすごい速度で回転します。そのスパイラルは誰かが疲労の末に朽ち果てるまで続くのでしょう。

休憩時間、先生が教室から姿を消すと、カノジョは再び教室の入口に身体を向け、頑丈な岩のようにピタリと動きを止めました。
「死んだ?」
隣の男性に聞くと、彼も呆れた表情を浮かべながら、カノジョの背中に向けて、そっと溜め息を吐きました。

しかし、これは死後硬直ではなく、ただの充電。
先生が戻って来ると、激しく息を吹き返し、また一人で喋っては手を叩いて笑い、一人で笑っては咳き込み、咳き込んだ後は机に突っ伏し、むくっと起き上がっては喋り、エンドレスに続く悲惨な情景は、この日の授業が終わるまで続きました。

全ての授業を終えた帰りの時間。
カノジョは立ち上がってもなお、相変わらず一人で喋っています。
他の生徒は、その存在を気にしないよう強く自身に言い聞かせているのでしょう。誰もカノジョを見ようとはせず、それでも、やっぱり僅かな興味に負けてしまうのか、対岸の灯りを眺めるかのような細い視線が交差しました。

するとカノジョは、リュックから旧ソ連の狙撃手が被るような黒の帽子を取り出すと、何もそこまで深く被らなくても…と思うほど、目深にそれを被り、もはや鼻から下しか見えない状態になっていました。お世辞にも顔が小さいとは言えないので、後頭部は露わです。示し合わせたかのように、どこかで誰かが白い旗を振ったかのように、そこにいた誰もが目をギュッと閉じました。見てしまうと笑いを押し殺すことが不可能だと判断した大人たちの、心温まる配慮です。

「難しいね~タイ語は。難しいのよ、だから勉強してるやん、分かっている、分かってるなら言うなー。でも言っちゃう、サクラ言っちゃう~何を?え、何の話?」
去り際だろうと例外はなく、大きな独り言を叫びながら、カノジョの初日は過ぎて行きました。

【ボクらは異国の片隅で砂の城を守っていたんだね。ほとんど誰も来ない小さな公園の片隅なのに、ちっぽけで鬱屈した幻想なのに】

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<タイ移住462日目>

「カプ雄さん、おはよう。昨日は絶好調でしたね」
後ろから掛けられた声に振り返ると、若い男性が手を挙げて微笑みました。同じクラスに通う生徒です。
「あれな。昨日の帰り、全身が痒くなったわー。あ、カバン持ってってくれる?一服してから行くから」

5分後、教室へ行くと黒板ではなく、やっぱり教室の入口に身体を向けて座り、微動だに動かない男、もとい、女がいました。サクラ君です。
「サクラさん、おはよう」
それでも返事はありません。私と喋る口など持っていないのでしょう。

生物学者でもないくせに、隣に座る男性に向かって、私は断言します。
「人間に強い不信感を抱いている。そういう動物は、こういう行動を取る」

この日、カノジョで驚いたことと言えば、まったく宿題をして来なかったこと。
たまに忘れる人もいますが、さすがに初日から一つも手を付けなかったことに驚きです。しかも前日、宿題を出された時には「宿題ね~大切だよね~やらないとね~(中略)スピーチ5分?はいはいはいはい、スピーチね~。や~ばい、趣味で5分も話せる?あ、ゲーム、この間ゲームをダウンロードした(以下省略)」と大騒ぎをしながら、ノートにピンクの蛍光ペンで「宿題 5分 スピーチ」と乱暴に書き殴っていました。罫線は無視です。

それでも順番は巡ります。
「え~なんだっけ~、何て言えばいいんだろ、頭では分かっているんだけど~(中略)言うことないし~、やった、やったよね~前の学校で習ったけど~(以下省略)」
ここらで3分。
「ゲーム。うんうんうんうん。ゲームね、ゲーム、うん、タイ語で何だっけ~分かってるんだけど、分かってる?いや、だからゲームでしょ?うける~マジや~ばい(以下省略)」

終着点を見つけられない語り手に先生は助け舟を出します。
「ディチャン(私)、チョープ(好き)・・・」
しかしカノジョは、その舟に手を伸ばすどころか派手に転覆させました。
「え~だから、あれでしょ、ほら、あれあれあれ、違う、ここまで出てるのに~(中略)なんだっけなんだっけ~、出たよ~え?ただ?何が?」
この時に限らず、カノジョは先生がどんなに繰り返し言うように求めても、絶対に繰り返しません。

それ以外は、前日のデジャヴ。
この日、パフォーマーとして新しい側面を見せてくれたことがあるとすれば、顔面を拭いたハンドタオルを机に叩きつけ、水気を切っていたことです。隣で私は息を整え、唇を固く結びます。笑ったら負け、そんな過酷なサバイバルに挑んだ覚えはありません。

【白く重なる雲の束、映す小川に架かる橋。ボクは此処から飛べるのだろうか。仮に翼を持っていても、飛び方を知らない臆病者は、嵩張る積乱雲を黙って眺め、静かに渡りゆくだけだろう】

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<タイ移住463日目>
「カプ雄さん、おはよう。今日は何をやらかしますかね?」
後ろから掛けられた声に振り返ると、若い男性が手を挙げて微笑みました。同じクラスに通う生徒です。
「席、交換して。隣はキツイ。顔が80cmくらいあるんだよ」

彼と一緒に教室へ行くと、おなじみの光景、充電中のサクラ君です。どんなに声を掛けようとも、私の声が届かないことは知っています。
「おはよう、どうしたん?油かぶって来はったん?」
この日のカノジョは、水や汗では説明がつかないほど、べったりと湿っていました。

もちろん、それには反応せず、先生が入って来ると同時にスイッチを入れ、誰に言うわけでもない耳障りなスピーチが始まります。一連の流れに場が慣れ、誰もが気にしなくなった矢先、先生からの問いに対するカノジョの答えが、夏の花火や冬のイルミネーションよりも眩しく煌めき、皆の視線がカノジョに集まりました。

「え?なんで転校して来たか?ちょっと意味が分からないんですけど~、あ、意味って言うか、意味ちゃうわ、意味って言うと違うよね~、え、意味ってタイ語で何?あ、やった、これやったわ~(中略)なんか、私以外の生徒がみんな来なくなって~よく分からないよね~いきなりやもん(以下省略)」

な、な、なんですって!!!!!!!
学校一つを消し去るなんて、なんたる破壊力!!!!!!

【誰かと愛し合うサイクルに取り残されたボクは、失えば誰かを想う回路さえ消えてしまう現実を知らない。それでも多くの人間が、自分より上と下の隙間で安定したがっていることは知っている。ボクらは消えやしないよ。幼子の描いた絵のように単純で不明瞭な坂道しかなくても、ここはカノジョを裁く場所ではないのだから】

カノジョの名前はサクラ(仮名)。
別名、スクール・クラッシャー。
スナイパーとしての戦闘能力は群を抜いています。

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学生ビザで滞在している方が学校を転校される場合は、通っている学校からの退学証明書が必要です。

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